編集長のワクチン接種の体験記

その昔、バイク乗りの友人が、仕事帰りに別の車と衝突し、燃え盛る車のなかで生きながら焼かれるという大事故が起こった。バイクを運転していたのに、車の中に取り残されるなんて、事故の瞬間、一体どんなアクロバティックな運動が生じたのだろうと今でも不思議に思う。フロントガラスから突っ込んだのか。

そのまま焼かれて死ぬところを、たまたま通りかかった人が、炎の中から友人を引きずり出し、やがて到着した救急車で病院に搬送されるまで見守ってくれた。救いの主は、名前すら告げずに立ち去ったという。新聞には「冷たい血」をもって救出劇がなされたと書かれた。フランス語で「冷たい血」とは、非常時にあって冷静さを保つ勇気に対する褒め言葉であり、気持ちが冷たいわけではない。むしろ温かい。

さて、バイクの友人は手足に大火傷を負ったのだが、こうした特殊な状況でブリュッセルで運びこまれる病院といえば、一つしかない。アストリッド王妃軍病院だ。第三、第四度の火傷に対応しており、彼は九死に一生を取り留めた。身体的にはいろいろ失ったものも多かったが、付き合っていた女性は彼を見捨てず、今も仲良く一緒に暮らしている。

軍隊の病院なので火傷に強いというのも理屈である。戦場では爆弾やら火炎放射器やら、人体を炎と熱で破壊しようとする攻撃が待ち受けているだろう。焼かれた兵士の命を救う術は、ここで応用されて火災事故で負傷した一般市民も救ってくれる。

軍病院の名前になっているアストリッド王妃は、皮肉なことに自動車事故で亡くなっている。1926年にスウェーデンの王家からベルギーのレオポルド3世(当時は王子)に嫁いできた。絶世の美女で、国民の人気も高かった。若いころのパオラ王妃も南欧の愛くるしさにあふれて素敵だが、白黒写真で見るアストリッドは鼻が高くて彫刻のような端正な顔立ちである。お忍び旅行のスイスで、レオポルド3世が自ら運転する自動車が道を外れ、車から放り出されたアストリッド妃は大怪我をして亡くなってしまった。


先ほどアストリッド王妃軍病院を訪ねた。火傷の治療ではなくて、COVID-19のワクチン接種を受けるため。ここではベルギー軍がワクチンの大規模オペを運営している。

我が家からはだいぶ遠いけれど、受けたい銘柄のワクチン(ファイザー)がここで提供されているのと、軍病院という特殊な場所にも興味があってやってきた。

なるほど、車で敷地に入ろうとすると、グリーンの迷彩柄の軍服に身を包んだ兵士たちが誘導してくれる。事前情報によると、軍事施設なのに兵士たちはリラックスしきった様子で、セキュリティーも甘く、たらたらと働いてるが、訪問者には親切だという。

実際に、その描写がまったく当てはまる現場であった。長い列に並んでいたら約束の時間より受付が遅くなってしまったのだが、列の先頭に入れてくれた。大きなリュックを背負っているのに、チェックしようともしない。トイレも普通に貸してくれる。兵隊同士で仲良くおしゃべりしながら人を誘導したり、流れをせき止めたり。

そんななか、女性隊員たちは、なぜかキビキビとしており、「10人こちらに並んで!」とか「ムッシュー、どちらに行かれるのですか!?」とか、大声で頑張っている。まるで学園祭でもやっているかのような男性隊員たちとは違う。この差はなんだろう。

受付で私に対応してくれたのは、50歳過ぎくらいの男性だった。階級章に3本線がある。白2本の間に赤1本。これは現場の兵士でもちょっと偉いのかな。上等兵?この方面の知識がないので、よく分からないが、軍服も年季が入っているし、胸ポケットには名前も書いてある。ルロワ。フランス語で「王様」の意味である。ときどき、王だとか伯爵だとかいう家名を持つ人に出会う。中国ならさしずめ「ワンさん」だね、と妻は言う。日本では「なんとかの宮」という名はあるが、王様は少ない。

隣のデスクで働いている階級章1本線の若い兵士が「王様なんて、すごい名前ですね〜」とおしゃべりをはじめた。

ベテラン兵士のルロワ氏もまんざらではない。「そうだろう? 下の名前はフィリップじゃないけれどね。あはははは」と言いながら、私にきらりとウインクしてくる。王様は私のIDカードと呼び出し書を時間をかけてチェックして、パソコン入力してくれた。仕事はきっちり。

次はワクチン注射の列に並ぶ。人種も民族もバラバラで、白人も黒人も、中東系も私のようなアジア系もごちゃまぜになっている。英語しか話せない白人女性もいる。全員がベルギー国籍ではない。高齢の女性もいるが、もしかすると2回目だろうか?

順番が来た。8番の部屋にどうぞ、というから長い廊下を歩いて、小さな診察ベッドがある部屋に入る。また軍人にIDカードを預けると、白衣を着た医者と対面した。

軍医なのだろうか? 中東系の出自に見えるが、これまた軽薄なノリで語りかけてくる。一応、仕事の部分はきっちりするようで、アレルギーはないかとか、利き腕はどちらかとか、このワクチンはどこどこ製だよとか、ポイントは抑えているので、極端に不安にはならないけれど、この施設全体に漂う南国リゾートの雰囲気は一体どうしたことなのか。ワクチンは筋肉注射なので、リラックスした状態で打ったほうが問題が少ないという配慮なのだろうか?

細い注射器の針が肩に入る。すると、スポイトを若干出し入れし、最後に押し込んだ。実に慣れている。注射自体の痛みはほとんどない。

IDカードを返却され、ここ最近友人たちがSNSでアップしているベルギーの「ワクチン接種済み」カードをもらった。

ここからまた別室で15分、椅子に座って待機する。小さめのプレハブ小屋みたいな粗末なところだが、換気装置はしっかり整っている。ここでも待機終了後にIDカードをチェックすることになる。

腕に入れ墨のたくさん入った若い兵士二人が、退屈そうに携帯スマホをいじって遊んでいる。もう任天堂のビデオゲームで盛大に遊んでくれても、こちらは一向に構わない。ただ、調子が悪くなったときには、助けてくれ。

待機所で5分くらい経過したとき、急に右目に鋭いしびれが走った。突然のことで驚く。左肩はほとんどなにも影響がないのに、どうしたことか。幸いなことに、その後は何事もなく、15分が経過した。IDカードをチェックしてもらい、本日のワクチン接種は終了。

午後15時に接種、その後車を運転して本屋に寄ったり買い物をした。しばらくすると、左手だけ力が入りにくいことに気がついた。程度は軽い。全体に痛みや違和感もなく帰宅した。午後19時頃から、筋肉痛というか軽い肉離れみたいな、かすかな痛みが注射をした左肩に感じられる。まったくの無症状というわけにはいかないみたいだ。他の方のワクチン体験記を読んでも、4〜5時間後に筋肉痛みたいなものが現れるとあった。

現在午後23時。そろそろ寝よう。熱もないし、左肩は多少だるいが、私はあまり副反応があるほうではないようだ。

日本にいる高齢の両親よりも、年上の兄よりも、先にワクチンを打ってしまったことになる。EUと加盟国が頑張って進めているからだ。オリンピックがあるのに呑気にかまえていた日本より早いのは当然だが、なんとも言えない気持ちではある。日本は必死さが見えない。欧州は必死でしたよ。危機は脱しつつあるから、これから徐々に世界を救うモードに入ってカッコつけるつもりです。

ワクチンを打って嬉しいか、と聞かれれば、それも微妙な気持ち。宿題を片付けた気にはなるけれど、本当に大丈夫なのか、心配がないわけでもない。このコロナ狂騒曲自体、意味が分かる日は来るのだろうか? 今日は、守護神アストリッド王妃の霊にお祈りして寝ることにする。おやすみなさい。

(追記)
ワクチンを打った翌日は、少し痛みが増した。腕があげにくく、肩より上にはあがらない。デスクワークくらいなら、支障はない。

翌々日になると、ほぼ痛みは消えた。48時間で痛みは消失というのが、私のケース。

もちろん個人差はあるし、二回目も同じとは限らないだろう。

 

 

以上、ご参考までに。蛇足ですが、ワクチン接種を推奨も否定もいたしません。

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