マヨルカ紀行 2019

マヨルカ紀行 2019

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編集長のスペイン・マヨルカ島への旅(2019年夏)の様子を、紀行エッセイとして発表。長いので3ページに区切りました。

その1 【マヨルカの綾波】

 

このキャラクターを知っているかい?

興奮したお兄さんが上気した顔でシャツをまくりあげると、そこには綾波レイがいた。彼は自分の二の腕に、エヴァンゲリオンの綾波レイがプラグスーツに身を包んだ姿をタトゥーにして彫り込んでいた

ベルギーのシャルルロワ空港からスペインのマヨルカに夜遅い便で飛び、到着後のレンタカーのサービスカウンターで思わぬ出会いがあった。これからバカンスをマヨルカで過ごす大勢の観光客が、レンタカーを借りる手続をしている。その事務所では、多くのスタッフが働いているが、番号札を取って順番を待ち、対応してくれたお兄さんが偶然、日本製アニメの大ファン。どういう運命の悪戯か。

もう少し穏当な絵柄のタトゥーならよかったが、まさか綾波レイを選ぶとは、さすがに絶句してしまう。出発前に夏風邪をひいてしまった影響もあるのか、一瞬くらっと頭が真っ白になった。こちらの驚きをよそにして、担当のお兄さんは車の用意を丁寧に進めてくれた。愛する日本からの顧客に、彼は幸福感に包まれており、マヨルカのおすすめスポットを地図に書き込みながら教えてくれた。

北部の山と海を見るといいよ。車で走ると美しい風景に出会えるから」マヨルカ生まれの生粋の島人が言う。
「ありがとう」日本語で礼を言うと、彼の体を電気が走り抜けたようだ。フランスに憧れる日本人がはじめてフランス人から「メルシー」を言われたら、さぞかしこんな感じだろうか。また数年後に来たら、今度は惣流・アスカ・ラングレーを反対側の腕に彫っているかもしれない。妻はエヴァンゲリオンをまったく知らないが、島民の予期せぬ歓迎に機嫌を良くしていた。

八月の熱気が闇に舞うなか、車のエンジンをかけて、最初の宿に向かうことにした。マヨルカ島の道路はお金をかけて念入りに舗装されており、車は滑るように進んで行く。リゾート地のほうが欧州の首都たるブリュッセルより美しい道路とは皮肉である。

スペイン人は夜遅くに食事をするイメージだったが、マヨルカ島ではそこまで遅くはないらしい。宿についてから近くの料理店に行くと、10時少し前だが、もう片付けはじめているようだった。

しかし、店主らしきハンサムな男性がでてきたかと思うと、我々を見るなり「オフコース!」と宣言した。こちらはまだ何も言っていないが、「食事したいんだけど大丈夫?」「もちろん大丈夫だよ」という会話が成立したのだと思う。英語が得意な人ばかりではない。さすがスペイン人はシャイではないので、コミュニケーションは円滑にいく。

マヨルカ風というピザが面白かった。甘いデーツ、タマネギ、豚肉などが入っていた。

赤ワインを頼んだら、しっかり冷えて出てきた。暑い国では冷えた赤ワインが美味い。今思い返しても、このときの赤がこの旅一番だった。

ちなみに、今回の旅は心と体を休める休暇なので、いつもの重い一眼レフは持って来ていない。ワインも撮影していない。写真の画質が粗いのは携帯付属のカメラだから。想い出は、記憶と文字で残せばいいじゃないか。

ともあれ、夏のバカンスに乾杯。夏風邪なんてひいたことがないのに、みんなと同じような陽気なバカンス旅行にでかけようとすると、かかってしまう。かなり昔には、ポルトガル旅行の直前に腰を痛めてキャンセルせざるをえなかった。今回はなんとか耐えて旅立つことができて、ほっとした。

明日は綾波レイのお兄さんの提案にのって北に行くつもりだ。マヨルカに療養に来たのは夏風邪の日本人だけじゃない。ポーランド出身のピアニストによる創作は、今やこの島のかけがえのない財産になっている。 


その2 【雨だれ】


太陽と月は惹かれあう。

芯から熱を発生させて炎と光をまき散らす太陽。その光を受け止め、反射させることではじめて輝く月。

しかし、マヨルカにたどり着いたのは、太陽のように陽気な男とその陰にひっそりと佇む女ではなくて、逆のパターンのカップルだったようだ。

フレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドは、なにもかもが普通の世界を逆さまにしたカップルだ。女性であるサンドが華やかなオーラを発する太陽で、男性であるショパンは静かな夜に光る月のよう。

結核にかかり肺病を病んでいたショパンの療養を目的として、そしてパリの社交界のゴシップから逃れるために、この不思議なカップルはマヨルカ島を訪れた。季節は秋から冬にかけて。いかに南の島とはいえども、期待していたほど天候はよいものではなく、ショパンは医者が必要なほど弱っていたようだ。

今なら飛行機で2、3時間も飛べばパリからマヨルカまですぐに到着する。当時はどうやって旅行したのか、まだ汽車も十分に通っていない時代だ。馬車だろうか。現代の車でパリからバルセロナまで1000キロを10時間。ならば1週間も馬車に揺られれば、なんとか地中海までたどり着くか。南仏かスペインの海岸から船に乗ったのは確実だろう。

ショパンとサンドは二人っきりではなかった。サンドの2人の子供と召使いの女性1人が一緒だったという。結核で衰弱した高名なピアニストと、黒尽くめの女流作家の一行は、田舎の島では強烈に衆目を集めることになった。1838年11月8日に到着したが、しばらくすると主要都市であるパルマには居られなくなった。教会に行かぬ。女だてらに本を書いている。ピアノの旦那は結核にかかっている。島民にとってショパンたちは疫病神以外の何者でもなかった。

追い立てられるように、ヴァルデモッサの古い修道院に宿を求めた。ショパンの書き記した手紙を読むと、最初の数日は天気もよくて人々は夏の装いをしていると喜んでいるが、修道院に移った頃はすっかり冬となり、悪天候に苦しんだ。

私も季節はずれの風邪を抱えつつマヨルカに飛んだ。2日目になると、いよいよ体調が崩れてきた。

ホテルはパルマ郊外にある静かな町で、昔の邸宅を改築したらしい広々とした場所だった。朝は見晴らしのいいテラスでフルーツやハム、チーズ、ヨーグルト、菓子パンなど気のきいた食事をゆったりととることができる。お腹の大きい女性がフロントと食事スペースを優雅に取り仕切っていて、もう一人が裏方で食事の用意をしていた。

どうも私の体は自然治癒にまかせていても回復しない様子なので、宿のセニョーラに近くでいい病院がないか紹介してもらおうと思った。彼女に風邪の症状を見てくれる病院がないか聞いてみる。

エレガントな物腰で英語も堪能な才女であるセニョーラだが、やはり自身が身重の状態で病人と接するのは、生理的に嫌なのが伝わってくる。申しわけない。

「病院なら、この近くにありますよ」
「今日は開いているかな?」
「ええ、大丈夫なはずです。調べてみますから、お食事しながらお待ち下さい」
「ときに、そこは英語が通じますか?私はスペイン語がまったくできない」
「まあ、大丈夫でしょう。なんとかするでしょう・・・」と言いながら、大抵のことは、なんとかこなしてしまうラテンのおおらかさが、そこにあった。

食後に、はたして宿から徒歩2分のところにある村の診療所といった病院に出向いた。やはり英語はあまり通じなかったが、なんとか処方箋を書いてもらい、薬局でもスペイン語のみで切り抜けた。その気になれば、フランス語が非常に訛っているという覚悟で聞いていれば、ある程度の理解はできるのである。

さて。寝込むほどではないので、マヨルカ島の旅は続く。車を駆って一路北へ向かう。ショパンが逗留した修道院は、ヴァルデモッサという村にある。車なら30分で到着する。事前に完璧に調査していたわけではないので知らなかったが、意外に観光地として発達した場所になっている。土産物屋やレストランがたくさんある。駐車場に車を停めるのも一苦労だ。

広場の一角に「フレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドの博物館」というのがあった。ここはショパン御一行様が滞在した修道院のこじんまりとした部屋が展示室として公開されている。

天井の高い修道院の長い廊下を通り抜けて行くと、ショパンの部屋がある。私が訪問した8月でも石の建造物はひんやりと冷たい。冬の寒い時期はさぞかし冷え冷えとした場所であったに違いない。ここにプレイエル社製のピアノをパリから運ばせ、ショパンは素晴らしい作品の数々を作曲することになる。

都会の喧騒から離れ、文化的な交流からは隔絶された場所で、ピアノの詩聖は自分の魂と向き合うことができたのか。なぜ、ここで、マヨルカの田舎の僧院で、創作の炎を立ち上らせることができたのか。不思議である。

寒々とした回廊には、フレデリック・ショパンが1838年12月20日から翌年の2月13日まで滞在したと石板に刻まれている。南欧だろうが、北半球が一番寒く、人間が孤独を感じやすい時期だ。

ピアノは容易にパリから飛んできたわけでもなく、主人であるショパンと一緒に船に乗ったわけではない。なにしろ往路ではスペインの税関で足止めをくらい、すったもんだの結果なんとか僧院に持ち込めた。帰りもいろいろ問題があり、結局、島に残していくはめになる。

博物館に島民の手記の翻訳が展示されているので、興味深く読んだ。

ジョルジュ・サンドは美しい婦人で、輝く黒い瞳が印象的な知性にあふれた顔つきをしている。神々しいまでの髪が額を縁取り、頭の後ろでくくった髪には銀の美しい短剣が刺さっていた。いつも黒か濃い色の洋服に身を包み、大きな宝石がついた十字をヴェルヴェットの紐で首からさげ、腕輪には想い出の品よろしく指輪が多くぶら下がっていた

息子のマウリシオは、年の頃13か14か、か細く繊細で、言葉を発せず、小さなアルバムに興味をひいたものを熱心に描き込むのが好きだ

小さなソロンジュは女史の娘で、兄とは対照的に、生気溢れる闊達なブロンド娘である。盛んに動いては音を立て、シャツとズボンをフェルト帽の下にまとった姿からは、母親から受け継いだ長く美しい髪が腰のあたりまで伸びているのでなければ、行儀の悪い男の子と思われてもしかたのない様子だった

彼らに同行している音楽家のショパンは、その作品でよく知られた人で、とても具合が悪そうだった。健康を回復するために南国の気候を求めてきたのだ。数週間ここで滞在した後、ショパンが胸に由々しき問題を抱えていると知られ、パルマの人間は肺病患者の住んだ家には近づきもしないというほど恐れを持っているので、ここに至って宿の主はサンドに即刻立ち退くようにと告げたのである。友人の介入があって、ヴァルデモッサに小さな部屋を見つけることができて、彼女は嬉しそうだった

というわけで、フランスからの旅人たちは、北部にある僧院に逃げ込むわけだ。

さすがタフな女性のサンドは『マヨルカの冬』という本を書いたりして、転んでもただでは起きない。島の風景を称賛しつつ、島民については辛辣な筆をふるった。

この手記を書いた婦人は、ショパンとサンドに対して親切に接したらしく、プレイエルのピアノを譲り受けることになる。いかに作曲家の大先生とはいえ、結核患者の弾いていたピアノを受け取る勇気を持った人間はマヨルカに数多くいるわけではなかったのである。

現代の我々からすれば、「ショパンの弾いたプレイエルのピアノ」しかもわざわざパリから取り寄せた楽器が、どれだけの歴史的な価値を有するかは重々理解できる。ショパンのピアノをお目当てに押し寄せる観光客の数も相当だろう。

その肝心のピアノはというと、、、どこにでもありそうなアップライト。よく見ると、竪琴と羽根ペンがあしらわれた金属プレートがつけられている。1838 - 1839という年号も見える。

小さなショパン博物館となった僧院の部屋には、ショパンの左手の石膏があった。

39歳で亡くなった天才ピアニスト。

ここにあるのはコピーだが、ショパンは死に際してデスマスクとデスハンドというのか左手の型を取られている。彫刻家オーギュスト・クレサンジェが制作した。サンドの娘ソランジュの夫である。右手は存在しないので、左手だけがかたどられたようだ。寡聞にしてショパンが左利きだったとは知らない。なぜ左なのか。

ショパンとサンドの二人は別れてしまったが、ショパンはソランジュに看取られて黄泉の国へと旅立った。血のつながらない娘が死の間際に側にいたことを見ても、太陽と月の決して切れない関係が続いていたのだと分かる。

ヴァルデモッサの修道院でショパンが作曲した「雨だれ」は、悪天候のマヨルカでショパンが生み出した静溢な音楽である。後半にあふれんばかりの情感がほとばしる峠を越えると、あとは諦念に身を貫かれたように、ただただ美しく音楽が響き渡る。


その3 【素顔の島民が食べるもの】


食堂を意味するスペイン語の言葉が「タベルナ」というのは、日本人からすると奇妙だけれども、はいそうですかというわけにはいかない。食べるために来たのであり、お店のほうも食事を出してこそ商売が成り立つ。
郷土料理。旅に出たからには、そこでしか味わえないものを食するのが楽しみである。

マヨルカで、個人的に気に入ったのは、フリート・マヨルキンという料理。豚レバーとジャガイモその他の野菜を油で炒めた素朴な味である。内臓を使ったクセの強い味なので、こういうのを受け付けない人にはおすすめできない。ただ、赤ワインに合わせると面白いし、ジビエのようにもっと強烈な味に比べれば、なんということもない。

この味にたどり着いたのは、旅も後半にさしかかってからだった。最初は観光客が喜ぶような上品なレストランで、上品な料理にあたっていた。ベルギーに比べると、それでも値段が安いので、特に気にしていなかったが、お店に入るとよくドイツ語が聞こえてきた。マヨルカはドイツ人のバカンス旅行者が多いことでも知られる。余所者がいるということは、島人専用の食事処ではないという証拠だ。

失礼ながら、ドイツ人が普段のストレスを南国で発散すべく、ビールを大量に飲んで大騒ぎするのではないかと偏見を持っていたところ、まったくの肩すかしをくらった。彼らは恐るべき静かさで、厳粛な態度で食卓に向かうのである。同じ店にドイツ人のグループがいると見るや、さらに声のトーンは下がる。隣にドイツ語が分からないであろうアジア人が座ると、ああ、ドイツ人じゃなくて良かったという安堵の表情を浮かべる。

マヨルカでは、あまりにもドイツ人旅行者が多いので、お店の人がドイツ語を話すのが日常となっている。レストラン用のドイツ語講座なんてのがあるのかしら。

あるとき、あまりにも流暢なドイツ語を話す雑貨屋の女性店員に驚いていたら、その女性はどうも元来がドイツ人で、マヨルカに移住してきた人のようだった。ビーチの商店街でWurst Shopなんて看板を見て、驚いたりもした。ヴルストはドイツ語でソーセージを意味する。故郷の味が恋しければ、ここに来るのだろう。

マヨルカでもソーセージのようなものがあると思って見ていたら、これはソブラサーダという豚肉の柔らかいパテだった。少し辛味のあるパプリカの粉が練り込まれているので赤っぽい。ナイフでパンに塗って食べる。これも若干のクセがあり酒に合う。

さらに豚料理。ミートボールのトマトソース煮込み。これも地元の人しか行かないタベルナで出会った。シンプルながら、なかなか美味い。家庭料理みたいだ。本当に島民が食べているものは何?というと、こうした普遍的な料理や、町でよく見かけるピザやサンドウィッチ、パスタなんかが多いのだろう。

きれいなレストランで立派なタコや魚を食べても、それだけだとお化粧をした昼の顔しか見ていないような気がした。地元の人しか行かないであろう裏道でタベルナを見つけて飛び込んでみると、また違う世界が広がって見える。

化粧を落とした素顔のマヨルカの島民は、よくタバコを吸い、たくさんビールを飲み、家族と友達で集まってよくしゃべる。

子供が走り回るガヤガヤとした空間には犬もいるし、猫もいる。

おしゃべりに華の咲くマヨルカの夜は長い。

 

(おしまい)

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