ウクライナ避難者の受け入れ体験記

ウクライナ避難者の受け入れ体験記

2022年2月24日。ロシアによるウクライナ侵攻開始。

次の日から、ウクライナから逃げ出す人々の様子がニュースで流れはじめる。多くの人々はどこか行くあてがあるわけではない。無我夢中でとにかく戦禍から逃げた。

EU各国でも避難者の受け入れが行われ、フランダース地方の我が家も受け入れ可能の登録をした。

普段は使っていない部屋もあるし、私のパートナーのティエリーはロシア語ができ、ほとんどのウクライナ人はロシア語が話せるので、役に立てればと思った。(3月15日現在、避難民は300万人を超えている)

 

3月7日(月)

我が家の登録情報を見て「泊めてくれますか?」とウクライナの人から連絡が来た。ティエリーがシャルルロワ空港まで迎えに行く。

40歳くらいのお母さんと7歳の女の子だった。キエフから南東に390kmのドニプロという人口100万人ほどの街から、ルーマニア経由でベルギーまで逃げてきた。

彼女たちの荷物は、小さな手荷物が一つずつ。洗面道具と着替え程度。本当に着の身着のまま、急いで逃げてきた。

うちにあったスリッパ、私には大きい服、娘が着なくなった子供の服などを見繕ってあげたが、施しを受けたと屈辱を感じていないか心配した。でも、ちゃんとスリッパを履いて、服も着てくれてホッとした。

欧州各国、ウクライナ避難者には滞在を許可するだけでなく、労働もできるし、子供は教育を受けられる。ベルギーの場合は月に700ユーロの支援金も配布される。

地図を広げて、彼女らの街がどこか教えてもらったり、いろいろな話をロシア語と英語のちゃんぽんで話す。母親は『難民』と呼ばれたくないと言う。国には仕事もあり、住む所もある、普通の市民なのだからと。

7歳の女の子を抱えて、これからどうなるのか不安でいっぱいの彼女は、気丈に振舞っているが、食欲がなく青い顔をしている。娘さんは状況を理解しているのかいないのか分からないが、散歩に行く?と誘うと目を輝かせた。

子供は元気いっぱい。池の白鳥を呼んで、朗らかに笑い、小さな体で駆け回って、お母さんにひっきりなしに話しかけ、よく笑っていて、こっちにまで元気をくれた。子供というものは大人が考えているより、よほどたくましく、生命力に満ちている。

3月8日(火)

荷物の中にボードゲームが入っていて、一緒に遊んだ。カメ・レースという双六のような遊び。「私が一番早い!」と、娘さんがスマホの翻訳機能を使ってオランダ語に翻訳して、何度も再生して笑った。

私はロシア語ができず、一緒におしゃべりしてあげられないので、こうして言葉が通じなくても一緒に遊べるのは嬉しい。

隣家のロバにもご挨拶。嬉しそうで、本当に良かった。

 

3月9日(水)

滞在3日で、母娘は、急遽ブリュッセルの別のお宅へ移ることになった。叔母さんがハッセルトに避難しているのだが、たった一人で別の場所にいるので、パリに住んでいる妹さんが骨を折って、うちに滞在中の母と娘、そして叔母さんの3人全員を受け入れてくれるブリュッセルのお宅を探してくれたらしい。

夕方、次の受け入れ先の人が我が家まで2人を迎えに来てくれた。みんなで、最善の方法を模索して、協力し合っている。まったくの他人同士が親身になって、お母さんと娘さんの心配をして、「在留手続はした?」「まだなんだ。あとは頼んだよ」と、人助けのリレーをしている。

ウクライナからの二人がいなくなって、家の中がガランとした。

東日本大震災のことを思い出した。福島にいる実家の家族も原発事故のせいで、着の身着のまま避難させられ、いつ自宅に帰れるのか、それとも帰れないのか、という不安な日々を過ごした。

町民は日本中に散り散りとなって、自宅に戻れた人は一体、何人いるのか。うちの家族も、結局のところ、震災のときに住んでいた家を失った。その震災の日から、もうすぐ11年。失った時間は、もう戻ってはこない。

 

戦火に追われて知らない土地へ来た人々。

私たちにできることは限られているが、できるだけのことはしてあげよう。

 

3月13日(日)

我が家で2組目の受け入れ家族がやってきた。お父さん43歳。お母さん40歳。9歳と11歳の女の子たちがいる4人家族である。

最終目的地はイギリスだが、どうしたらいいのか、相談と調査に時間がかかる。イギリスで新たな生活基盤を作りたいらしい。

この家族は、ロシアの侵攻がはじまった2月24日に首都キエフから車で逃げ出してきた。国境まで普通は5時間で行くところが16時間もかかり、ポーランド、ドイツを経由して、ベルギーまでやってきた。

彼らの車をしみじみ見てしまった。ウクライナの黄色と青の旗のマークが付いている。本当に、あんな遠いウクライナから何日もかけて、ここまで逃げてきたんだなぁ。彼らの車はスバルだった。これも、別な意味で感動的。

ガソリンスタンドにはガソリンがなかったり、いつ買えるか分からないので、ガソリンをポリタンクに詰めてきた。ウクライナ国内はGPSが使えず、苦労したらしい。ポーランドでは避難民が多くホテルは満室で、車中泊という日もあったという。

それでも、家族が全員一緒でいられるためか悲壮感はない。ウクライナ人の両親は2人ともおしゃべりで、マシンガンのようにロシア語がバンバン。ティエリーは弾丸トークを受け止めるだけで、クタクタになっていた。

パスタを茹でて、トマトソースで夕ご飯。すると、2週間ほとんど温かい食べ物を食べていなかったから嬉しい・・・としみじみと言う。子供達も2人で遊んでくれるので、手がかからない。

3月14日(月)

「今日は、ウクライナ料理を作ってあげる!」と、奥さんが張り切って料理してくれた。昼間、ティエリーがスーパーに連れて行ったのだそうな。

ゆで卵とネギのマヨネーズサラダ。レタス、赤ピーマン、トマト、生ハム入りサラダ。煮込み用牛肉と人参を加えて炊いたご飯は、日本の釜飯そっくり。

どうやって作ったのか根掘り葉掘り訊く私。ティエリーは通訳としてこき使われるわけだが、食習慣はお互い興味深い話題。

ベルギー野菜のシコンを切って、ウクライナ人家族に食べてもらうと、両親のほうは白菜の根元に似てる、とパリパリとおいしそうに食べていた。

 

3月15日(火)

イギリスに渡るべく、家族はベルギーからフランスの港町カレーへ出発した。

ロシア語でバイバイはパカパカという。ここ2日で、私のロシア語のボキャブラリーはちょっと増えた。

カレーに到着したが、イミグレーションの受け付け時間は終わっていたようだ。

フランス語はもちろん、英語もほとんど話せないウクライナ人家族に代わって、ティエリーが電話越しにイギリスのイミグレーションやフランスの警察と話した。

ウクライナの家族は、ひとまず我が家に逆戻りだが、めでたく金曜日以降にイギリス行きのヴィザがもらえるということになった。

 

戦争で自分の国から逃げなくてはならない。知っている人もいない国へ。子供は学校に行けなくなり、友達とも遊べない。

そして、いつ戦争が終わって、自国に帰れるか分からない。どんなに怖くて、不安なことだろう。

私たちにできることは限られているが、できるだけのことはしてあげようと思った。

 

参照:避難民受け入れサイト

https://mapahelp.me

文・み