不朽の名作『星の王子さま』を書いたフランス人作家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは飛行機乗りとしても有名である。彼は1935年12月にサハラ砂漠に不時着し、十分な水と食料もなく3日間も乾燥した砂漠をさまよい歩いた。手にある地図は役に立たず、勘に任せて東へ進むのだが、極度の脱水症状のせいで蜃気楼が見え、幻聴も聞こえる危機を迎える。そのとき、ラクダに乗ったベドウィン族の男が偶然通りかかり、この無鉄砲な飛行機乗りは九死に一生を得た。
『星の王子さま』は、サン=テグジュペリの体験を元に書かれている。「本当に大切なものは目に見えない」は、あまりにも有名なセリフだが、24章には「星々がきれいなのは、どこかにバラが咲いているから」「砂漠がきれいなのは、どこかに水を隠しているから」などという表現もある。
あるとき、私のモロッコ系フランス人の友人、ファティマから「家族の故郷モロッコに里帰りするのだけれど、観光も兼ねて一緒に行かない?砂漠でラクダに乗ったりもできるよ」と誘われたとき、このサン=テグジュペリの不時着のことが脳裏をかすめた。
彼はどこに墜落したんだっけ?アルジェリア?モロッコ?調べてみると、彼は飛行機の記録更新を目指してリビアから飛行した。その際、不時着したのはエジプト領内の砂漠のようだ。サハラ砂漠と一言で言ってもとんでもなく広い。
人生で見失ってしまう何か大切なものを砂漠は隠している。疲れ果てた飛行機乗りと王子さまが一緒に眺めた美しい砂漠を、私も一目見てみたい。ラクダに乗るのは若干の恐怖だが、しかたない。
ファティマの実家はモロッコの内陸部。アトラス山脈を超えて、砂と岩しかない荒野のなかに、ぽつんぽつんと点在するオアシスの村だ。今回は、パリ=オルリー空港からモロッコのワルザザート空港に飛んで、個人の大型タクシーで10日間、「奥モロッコ」とでも言うべき秘境を旅することになった。
一般にモロッコ旅行というと、通常は大都市カサブランカ、首都ラバト、スペインにも近いタンジールなど沿岸部か、もしくは古都フェズや南の真珠と呼ばれるマラケシュが主な観光スポットである。インスタ映えを気にするのであれば、街全体が真っ青の塗られたシェフシャウエンも写真映えしていいかもしれない。
しかし、今回は家族旅行で「奥モロッコ」なので、砂漠とオアシス、そしてカスバやクサールと呼ばれる城塞や伝統的集落、映画スタジオくらいしか、観光らしきものはなく、内容がちょっぴり限定的であることは、読者の皆さんのお許しを願うばかりである。
代わりに青い鳥読者と分かち合いたいと思ったのは、「目に見えない大切なこと」を心から信じている素朴な人々との出会いの記録。星の王子さまが言いそうな名言を、さらっと口にするモロッコの人々の魅力を伝えたい。
パリからワルザザートへ空の旅
曇天のパリで飛行機に乗り3時間半、目的地に近づき高度が落ちると、窓の外は褐色の大地や黒々とした渓谷が眼下に広がる。着陸後ドアが開くと、熱い空気が外から流れ込む。青い空のモロッコへようこそ。
ワルザザート空港ではスーツや制服姿の男性係員がテキパキと働いている。女性はみなスカーフ着用で、ときおり両手を赤黒いヘナで染めた人を見かける。顔に伝統的なタトゥーを入れる人もいるが、今の時代は流行らないのだろう。高齢の女性しかいない。
小さな空港にはすぐに入国審査の列ができるが、車椅子の人や子どもたちは優先される。我れ先にと徳行を積もうと熱心に励む係員の姿は尊い。第一印象は、やさしい。その一言に尽きる。
ベルベル人とは
モロッコの公用語はアラビア語とアマジグ語。アマジグは、一般的にはベルベルという。
ベルベルという言葉自体が少々やっかいだ。もともと古代ギリシャで「蛮族」を指し示すバルバロスという言葉があった。わけのわからない言葉を話す辺境の野蛮民族。
これがアラブ民族に借用されると、今度は北アフリカの被征服民がバルバルと呼ばれるようになる。時代とともに音が変化してベルベルとなった。
日本でもかつてヨーロッパ人を「南蛮人」と呼んだりした。言葉も風習も違う民族は、野蛮にしか見えないのだ。しかし、当事者のベルベル人は自らをアマジグとかイマジゲンと自称する。「自由な人」を意味する。ベルベル人の中にも多様な民族が存在する。村に定住する人もいれば、遊牧民として移動生活をする人もいる。
ベルベル語は固有の言語だけれど、アラビア語の影響を強く受けている。通りすがりの観光客は、アラビア語の挨拶ができれば問題ない。サラーム(こんにちは)、シュクラン(ありがとう)、インシャーアッラー(神がお望みであれば)、アルハムドゥリッラー(神のおかげで)など。
ベルベル語は学ばかなったけれど、唯一覚えたのが「はい」の言葉で、「ワッハ」という。会話の相槌はワッハ、ワッハ、愉快な響きがした。
土の城、世界遺産のカスバ
西洋が石の文化、東洋が木の文化だとすると、モロッコは「土」の文化である。粘土をこねて固めて家も作れば、かまどや食器も作る。人間も死ねば土に還る、という死生観と埋葬の習慣も興味深い。
カスバ(casbah)とは、モロッコ内陸部にある城塞都市のことを言う。空港からほど近いアイト・ベンハドゥ(Aït Ben Haddou)は世界遺産にも登録されているカスバの代表格である。小高い丘の斜面に無数の住宅がある。古い建物は、直射日光を浴びても断熱できるように厚さ1メートルほどの分厚い壁に覆われている。部屋の中に入ると、暗くひんやりとしている。
迷路のように曲がりくねった細い通路を抜けないと、上には進めない。敵から攻撃されても、防御しやすいようになっている。
独特の幾何学模様のデザインの立派な建物だが、実際に訪れると粘土と藁で作られた床は、弾力性があって軽い感触がする。あまり雨は降らないものの、崩れやすい素材であることは明白。きちんと管理しないと消滅してしまう遺産のようだ。
頂上まで登ると、この日は風が強くて、体が吹き飛ばされそうになった。360度周囲を見渡せる。敵の襲来を察知する意味でも、この地形は有利だ。
帰りにノマドのお兄さんたちが経営するカフェで休憩した。銀のポットから勢いよくミント・ティーを注ぎ、砂糖をたっぷり入れて飲む。砂糖をポット自体に入れるのか、お茶はどのくらい濃くあるべきか、いつも議論になって面白い。
サハラの砂漠の男たちは、青い衣と青いターバンが基本の姿。日に焼けた肌に黒い瞳が輝く。砂漠の生活について教えてもらった。
やさしいモロッコ料理
旅の途中で、日本からの団体観光客に遭遇した。ホテルの食堂で大きなテーブルを誰かが予約していると思ったら、20人くらいの日本人グループだった。
添乗員さんが「晩ごはんのメインは、また鶏肉のタジンです。お昼と同じで申し訳ございません!」とお詫びを口にしている。礼儀正しい日本人は、だれも抗議しない。「美味しいですね〜」と褒めるばかり。
個人ごとに注文すると時間がかかるから、同じものを人数分、事前に予約していたが、肉の種類までは指定できなかったようだ。
日本料理の種類の豊富さが異常なだけで、世界はもっとシンプルで選択肢は少ない。今回の旅行でも、前菜はサラダかスープ。メインはタジンかクスクス。食事にはパンかクレープがついて、食後は果物かクッキーがデザート。飲み物は定番のミントティーか、運がよければコーヒーもあるかもしれない。アルコールは罰当たりな外人の飲み物なので、寛容なホテルのバーでこっそり飲むしかない。
タジンは独特な形の蓋がついた陶器の鍋に、肉と野菜、スパイスを入れて蒸し焼きにする。牛、鶏、羊に野菜やオリーブ、プルーンを材料にし、スパイスがまぶされて食べ飽きない。本などで紹介されるレシピを見ると、だいぶ長い時間、少なくとも1時間は蒸し焼きにする。毎日これを料理するのは厳しい。精神的にも余裕がないと料理できないご馳走。
モロッコにいる間、ずっと肉ばかりの食事なので、少し肉の量を減らそうと、ベジタリアン・タジンを頼んだことがある。すると、野菜の下、鍋の底からやはり牛肉が出てきた。そのお店では「野菜が多めのタジン」のことを「ベジタリアン」と呼んでいるようだ。冗談みたいな本当の話。ヨーロッパ的な菜食主義がモロッコで通用するかというと、厳しいのではないか。
旅も後半になってくると、胃腸が弱ってきたので、前菜として出されるスープに助けられた。ハリラという名前でトマトと香味野菜、ひよこ豆を煮込む。短い長さの細い麺が少し入ってるのが特徴。
モロッコの料理は、食材が柔らかくなるまで煮込んだものが多い。香辛料は入っているがマイルドで、全体にやさしい印象だった。
アラブの商人の交渉術
世界遺産のアイト・ベンハドゥを訪れた翌朝、少し早起きをしたので、見晴らしのいい街道沿いのお土産物屋をのぞいてみた。
小さな店内に所狭しとアンティーク小物から絨毯まで並んでいる。お店の主人に挨拶をすると、「君たちが朝一番のお客様だ。最初のお客様は、幸せを運んでくるという言い伝えがある。縁起がいいね!」という。言い方が爽やかで、ついここで何か買ってあげたいと思うほど好印象だが、残念ながら欲しいものが見当たらない。
旅程について話になったとき、「砂漠に行くのかい?だったら、砂漠のパスポートは持っているのかな?」という。
国境を越えるわけでもないのに、パスポートなんて要らないのにと思っていると、主人が手にしたのはターバンだった。なるほど。強い陽光と砂塵から皮膚を守るための「砂漠のパスポート」。これがないと日陰のない砂漠には行けない。朝一番の景気づけにターバンを買った。どうやって頭に巻くのか、コツを伝授してもらい、その技術は確かにその後の旅で役に立つことになる。モロッコで初の商人との出会いに、トークがお上手だな〜という感慨を覚えた。
市場(アラビア語でスーク)には、食品から生活用品、それに観光客を相手に商売する雑貨を扱う店など、様々な商売が存在する。
ここでは「値段交渉」が重要な儀式である。逆に何か商品に値札がついているのを見たことがない。街を歩いていて声をかけられると、最初は何気ない世間話をしていると思ったら、実はお店を持っている商人だったということが何度もあった。人によっては観光客を罠にはめて、高い金額で商品を売りつけようという魂胆が透けて見えることもある。
挨拶もそこそこに「これ、いくら?」と値段を訊いても教えてくれない。独特の習慣がある。一度の旅では奥義を会得するには経験不足だが、アラブの商人たちの交渉の作法は少し理解することができた。
まずはソファーに座ってくつろいで。お茶をお出ししますから。旅のお方は、どちらから? お仕事は何をしているのですか? お医者様ですか〜! お子様は何人? ご旅行は楽しんでいらっしゃいますか? これからどこへ? などなど、さり気なく客のステータスをチェックする。頭のどこかで利益率を算出。一等国で稼げる仕事の人が旅行を楽しんでいる。しめしめ、普通の売値の10倍でも払えるだろう。世間話が一段落したところで、ようやく紙とペンを取り出して金額を提示してくれる。
悲しいかな、私は医者でも弁護士でもIT長者でもないので、他の店で聞いた値段の倍以上を提示されると驚いてしまう。観光客だからという理由だけで、不当に高い金額を要求されるのは悲しい。そんな値段じゃ買えないと告げる。
商人は急に不満そうな顔になり「じゃあ、どのくらいだったら払えるんだ?」と強気の姿勢に出てくる。だいぶ安い金額を書き込むと、本当に信じられないと怒り、真面目に考えてもらわなきゃいけませんよと、テーブルに並べた商品をガチャガチャと集めて箱に戻すふりをする。
客は、本当に欲しいのであれば、まあまあと商人をなだめて新しく金額を書き直すのだろうが、最初からその商品にそこまでの興味がない、もしくは想定価格より大幅に高い場合、交渉は決裂せざるを得ない。商人の値踏みが間違っていると、そんな悲劇が起こる。客も最初から貧しいふりをしないといけない。
もし、双方が歩み寄りできそうな流れができたら、商人は新しい戦略を展開してくる。「その金額ですと、ちょっと厳しいですな・・・。どうでしょうか。もう一つアイテムを足して、二つまとめてお買い求めになられては? なにしろ、少し金額を足すだけでいいのですよ」。抱き合わせ販売による売上アップ狙いだ。客側も「まとめて買うから安くしろ」は常套文句なので、両者の利害が一致すれば、交渉成立ということでも構わないと思う。
値段が一律ではないということに、違和感を覚える人も多いだろう。ただ、モロッコは物価が安いので、価格帯によっては、たとえ高い金額を払っても、ダメージは少ないということがほとんど。商品や、売っている人自身のことを気に入れば、チップだと思って払ってあげたらいいのではないか。
欧米のバカンス客は多めに払えという「累進課税」みたいな制度は、そう理不尽でもない。現に日本の企業や自治体も二重価格制度を検討している。姫路城の入場料が海外からの訪問者だけ4倍の値段にするそうだ。
ちょっと落ち着いて腑に落ちるまで考えよう。経済的に安定した身分の人が、より貧しい人よりも多めに負担するという発想が皆無だと、旅の楽しみも半減し、この世界も生きづらいものになってしまう。
オアシスの謎
モロッコは広大である。面積は44.6万平方キロメートルで日本の1.2倍の大きさ。
国の中央を東西にアトラス山脈が貫き、最も高いツブカル山(標高4167メートル)を筆頭に3000メートル級の山々がそびえている。
夏の間はまったく雨が降らないけれど、山頂を仰ぎ見ると雲がかかっているのが分かる。冬には雪も積もるので、モロッコはスキーリゾート地でもある。
高い山が空気中の水分をとらえ、雪が溶けた水が川に流れ、ときには地下にもぐって砂漠の荒野にオアシスを出現させる。
砂漠に井戸を掘って水が出てくるなんて、奇跡のようだが、モロッコ南部はアトラス山脈のおかげでオアシスが生まれた。水は人間の命そのもの。かつてのラクダの隊商も、オアシスからオアシスを渡り歩いて商品や情報を送り届けた。
植物の緑と貴重な水、オアシスを潤すのはそれだけではない。
旅の一行を乗せた車がオアシスを目指して、舗装されたアスファルトを離れて砂の多い道を進んでいたところ、タイヤが砂に埋もれて空転してしまった。エンジンをふかしても、バックしても、うんともすんとも動かない。
しょうがない。全員降りて、車を押してみよう。タイヤまわりの砂を手で掘り起こし、フットマットを下に敷いたところで、どこからともなくバイクにまたがった青年が登場した。
当然といった感じで、彼は車を押すのを手伝ってくれる。おかげで車は脱出することができた。ありがたい。モロッコでは、困ったことがあれば、いつも誰かが助けてくれた。商人との交渉で疲れた心に、じんわりと沁みる。
分かち合うことの大切さ
今年のモロッコは干ばつで雨が降らず、乾燥に強いはずのヤシの木も緑の色彩を失い、白茶けて元気がなさそうだ。地図上では湖や川のところが、すっかり干上がって底が見えているところもある。車を走らせてもずっと砂と岩の荒野が続く。
すると急に鮮やかな緑色の畑が現れ、旅人を驚かせる。スイカ畑だ。運転手さんの提案で、休憩を兼ねて畑を見にいくことに。
車から降りた我々のところに、若い農夫が走ってやってくる。スイカ泥棒じゃないよと言おうとすると、どうやら歓迎してくれているみたいだ。
ちょうどお父さんと農作業中のハミッド君は、水を汲み上げるガス・エンジンと発電機を自慢げに見せてくれた。せっかくだから、試食していってくれよと、スイカを丁寧に洗ってナイフで切り分けてくれた。
こんな荒野にも、地下水が眠っているのも驚きだし、急に現れた珍客にスイカを振る舞ってくれるなんて信じがたい。我々はお礼を渡そうか迷うが、かえって失礼だからと、ご厚意をありがたくいただくだけに。畑のことや暮らしぶりについて楽しく話をして、別れ際にはもう一つスイカを持っていけと気前よくプレゼントしてくれた。畑の脇で食べたスイカは、特別に赤くて甘い味がした。
別の村では、パン焼き小屋で、焼き立てのパンを試食させていただいたのも嬉しかった。
分け与えることは、モロッコの文化として深く根付いている。厳しい自然環境のなかで、人間同士が損得勘定抜きに助け合わなければ共倒れになってしまうのも理由かもしれない。そして、宗教の戒律も少なからず影響しているだろう。
イスラム教徒には5つの義務がある。信仰告白、礼拝、断食斎戒、喜捨、巡礼。
例えばファティマのお父さんは、年齢と健康上の理由でラマダンの断食を遂行できない分、お金を少しづつ貯めておいて、故郷の貧しい人たちに寄付をしている。食品店が低所得家庭のリストを持っていて、寄付を基金にして小麦や油を渡してくれるシステムがあるそうだ。
ユダヤについて
パレスチナの武装組織ハマスの攻撃をきっかけに、イスラエルがガザに侵攻して紛争が続いている。イスラム教国では、さぞかしユダヤ人に対する嫌悪感が高まっていると思われるだろうが、そう単純ではない。
モロッコでは古くからユダヤの民がイスラム教徒と平和に共存してきた。今でも、おみやげ物屋さんにはダビデの六芒星をあしらったアンティーク小物が売られているし、ユダヤの燭台もよく目にする。
イスラム教徒からすると、ユダヤ教もキリスト教もみな啓典の民であり、宗派は違えども同じ神を崇拝する仲間である。
イスラエルの建国以来、モロッコにいたユダヤ教徒がイスラエルに移住した人数は30万とも言われる。ある統計によると、モロッコを出自にもつイスラエル人は現在100万人。となると990万のイスラエル人口の10分の1ということになる。
そうしたユダヤ系も含めてモロッコ人の大半がパレスチナの多大な犠牲に怒りを覚えているであることは確かだが、現在のイスラエル政府とユダヤ民族をひとまとめに考えてはいないようだ。
さらに地政学的な意味でも、モロッコとイスラエルの距離は近い。というのも、モロッコは国の西側に紛争を抱えているからだ。ポリサリオ戦線という軍隊が隣国アルジェリアの支援を得て、西サハラ地域の独立運動を展開している。
そのグループとモロッコの勢力境界線には「砂の壁」が築かれている。2700キロにも及ぶ長い壁。その建設にイスラエルの技術協力も入っている。そうした背景もあり、2020年にモロッコとイスラエルはアメリカの仲介で国交正常化している。
ただ、紛争が長引き、イスラエルの非人道的な振る舞いばかり報道される状況では、これから先どうなるか誰にも分からない。
砂漠の美しさ
サハラ砂漠の入口、メルズーガ(Merzouga)に到着した。これまでの荒野とは違う風景だ。見るからに肌理の細かい褐色の砂が、美しい曲線の丘となって現れる。砂漠の真ん中に設置されたテント村に宿を取り、日の入りと日の出の瞬間を見に出かける。移動はもちろんラクダである。
ちなみにモロッコにいるラクダは「ひとこぶラクダ」で、フランス語ではドロマデール(dromadaire )という。体重は600キロで頑強そのもの。本気になれば時速60キロで疾走できる。
乗り降りについて一点注意。ラクダは地面に伏せてくれているので鞍にまたがれば、問題なく立ち上がってくれる。しかし、座るときが要注意。強い勢いで前のめりに倒れるように地面に座る。人間はハンドルをしっかり握って衝撃に備えていないと、転落してしまう。降りるときにご注意を。
砂漠を訪れるのに、なぜ日没と日の出の時間なのか、あまりよく考えていなかった。その理由は炎天の日中を避けるのと同時に、太陽の高さが低いほど、砂丘の陰影がより浮かび上がるという美しさの観点も理由なのだ。
少し早起きしてラクダに揺られ、砂丘の頂上からご来光を眺める。稜線がしだいに朱色に染まり、それから太陽が姿を現し空を黄金色に輝かせる瞬間、砂漠は息を呑むほど美しい。
最近のノマドの教育事情
旅の後半、ファティマの親戚宅に逗留した。彼女の叔父さんは地元の学校で長年フランス語の先生をしていたが、今は引退して悠々自適の暮らしを送っている。元教師だけあって知識量が豊富である。彼が好きなのは古今東西のことわざの暗唱。
「習慣は第二の天性なり」。「魚一匹あげると一日生きることができる。釣りを教えれば一生涯、生きていける」。「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」など、教育に関わる警句も多い。
教育はというと、遊牧などで暮らすノマドの民は、子供の教育をどうするんだという疑問がわく。地元の人に聞いてみると、昔は出生登録すらしていないので、学校にも行かない子供が多かった。すると文字の読み書きができない文盲になる。
今は市民登録も義務だし、学校の期間は子供は街にいて、たいていは母親だろうが、だれか家族の一人が一緒にいて世話をする。学生たちが自転車で登下校する風景にも出くわした。
今回旅をしたのが田舎だからか、旅の途中で一度もきちんとした書店を目にしなかった。新聞やちょっとした文房具を売る店はあるが、そこに書籍は目につかないか、店の奥にコーランらしき立派な装丁の本が見えるだけだ。モロッコに本屋は少ない。
しかし、宿泊施設などで出会う若いノマドは、スマホ携帯を手にして器用に使いこなしている。文盲の時代は終わりつつある。しかも彼らは観光客との会話を通じて、主要欧州言語で受け答えができ、日本語の挨拶や単語も覚えている。ラクダ、行こう、すごい・・・。
移民に支えられる欧州
フランスやベルギーに住む移民のなかで、人口が多い国の上位がモロッコである。ファティマのお父さんも、フランスに移住して肉体労働の仕事についた。誰もしたがらない、いわゆる3K。きつい、汚い、危険。しかも問題が発生したら夜中でも休日でも呼び出されて現場に駆けつける。彼が身を粉にして働いたおかげで家族はフランスで生活し、発展するための基礎を築くことができた。
2024年はベルギーとモロッコにとって特別な年である。移民についての合意文書に調印したのが、ちょうど60年前。当時は主に炭鉱の労働者が不足しており、こちらも厳しい仕事を発展途上国の若者たちに押し付けるかたちで、ベルギー人たちは自らの手を汚さずに経済発展を達成することができた。
今でも移民出身の人間が階級社会のヨーロッパで成功するのは難しい。貧困や犯罪のイメージがつけられ、目に見えない差別意識から脱却するには、さらに時間がかかることだろう。社会の根幹を支えてきた人々に対して、公平な態度とは言えない。
恋愛と結婚
叔父さんの家では、昔の家族写真も見せてくれた。その中に結婚式の写真があった。白いベールを頭からかぶった花嫁が背負われていて、その両手はヘナの模様で赤黒く染め上げられている。両脇には何やら容器を手にした女性たちが見える。
謎の容器には、ミルクが入っているとのこと。花嫁が健康な子供を生み育ててくれるよう祈ってのことかと思われる。
モロッコでは伝統的に、親や親族が子供の結婚相手を見つけたり、条件を交渉したりしたそうである。日本のお見合いや仲人の風習に似ている。新郎から新婦に、支度金や貴金属アクセサリー、結納品が贈られ、晴れて結婚に至る。
しかし時は流れて伝統は力を失い、より自由な結婚のかたちが増えている。ファティマのお父さんは、知人の紹介を受けて隣町までスクーターに乗って出かけ、畑で働いているお母さんを遠くからちらりと見て気に入り、結婚を申し込んだそうだ。結納の品としてたくさんの砂糖や油などを贈り、結婚して多くの子宝に恵まれた。
ちなみにイスラム教では一人の男性が四人まで妻をめとることが許されている。街の商人に、そんな人は本当に近所にいるのか?と尋ねると、実際に知り合いがいるという。ただし・・・簡単ではない。お金がかかる。
というのも、すべての夫人は同じ待遇で接しなければならないからだ。まず一人ひとりの妻に、同じ規模の家を買う。お祝いの日に妻にドレスを、子供に服を買い与える習慣があるのだが、それも同じ金額のものを用意しなければならない。ブランドやデザインもかぶらないように配慮すべきだろう。
そもそも新しい妻を迎え入れるには、前の妻たちの許可が必要となる。どう説得するかは想像もつかない。妻が増えると、気づかいも増える。一夫多妻の生活は、本当に幸せなのだろうか?
砂嵐に遭難した日本人女性
メルズーガ砂漠でテントで過ごした夜、食事のあと満天の星空の下でノマドの青年に出会った。私が日本人だと知ると、少し長くなるけどと前置きして、砂嵐で遭難した日本人女性のことを語ってくれた。
あるとき、日本人の団体旅行客が砂漠のホテルに泊まりに来た。そのなかの一人の女性が自由時間に外出して、運悪く砂嵐に巻き込まれてしまった。地元の人ならば対処の仕方を知っている。基本はその場にじっと座り込み、嵐が通り過ぎるのを待たなければならない。しかし、日本人女性は気が動転してあちこち歩き回ってしまい、道に迷ってしまった。日が沈み、辺りが真っ暗な砂漠をあてもなくさまよう。
そのとき、遠くに焚き火の明かりを見つけた。必死の思いで近づいていくと、それはノマドの家族が夕食にタジンを料理している火であった。
言葉が通じない彼らだが、女性が迷子になって困っていることは十分に理解できたため、その晩は彼女はノマドの家族と一緒に過ごし、食事や飲み物も与えてくれた。
翌日、一家の息子が彼女をホテルまで送り届け、無事に帰還することができた。ツアー客が突然姿を消したため必死に探していた旅行会社の関係者は皆安堵した。
旅行が終わり一端は帰国した日本人女性だが、何か思うことがあったのだろうか、数ヶ月後、再度モロッコに旅立つ。そしてホテルの人に仲介してもらい、砂漠で助けてくれたノマドの家族としばらく一緒に暮らせないか聞いてもらった。その要望は聞き入られて、彼女は砂漠生活をすることに。神の思し召しか、彼女は家族の息子と結婚して、今では子供も生まれて幸せに暮らしているということだ。
オーストリアから来た「オアシスの医師」
友人のファティマの母方の実家は、ゴールミマ(Goulmima)という小さな村だ。1955年の夏、この村の病院にオーストリア人の医師が自ら希望して赴任し、当時の日誌が一冊の本にまとめられている。 ルドルフ・ペレグリーニ著『ゴールミマのトゥビーブ』という本で、原文はドイツ語で近年、医師の娘によりフランス語に翻訳された。トゥビーブとはアラビア語で医師を意味する。
実はファティマのおじいさんが病院に勤務しており、この本のなかで言及され、8ミリビデオの動画にも筋骨隆々の姿を見ることができる。
70年も昔の前近代的なモロッコ内地に乗り込んでいく精神の持ち主の文章は非常に面白い。前任者のフランス人医師は、患者に暴行されて逃げ出してしまった。出発前に親しい同僚はこう忠告した。「アフリカなんかで何をするっていうんだ。砂に埋れて、時間を失うだけだぞ」
注射を拒絶する患者や、8歳くらいの娘が結婚できるように証明書を出してくれという両親が登場する医療現場で、西洋医療に対する疑念や、風習の違いなどに手を焼きながらも、トゥビーブは人の命を救っていく。
日誌は貴重な歴史資料で人生の教訓に富む。あるとき遊牧民の結婚式に招かれたトゥビーブは、長老にカメラで写真を撮ってもいいかと尋ねる。長老は快諾する一方で本音を漏らす。
「ヨーロッパ人とは奇妙だな。神がせっかく人間に見る目と記憶する心を与えてくださったというのに、皮の袋にガラスを入れて持ち歩き、紙に写して記憶の代わりにするなんて」トゥビーブは長老の言葉に感心する。
星の王子さまに会う
モロッコ最後の夜。旅の最初の頃に泊まって気に入ったホテルにもう一度、宿泊することになった。
みんなで一緒に食事をしながら、ファティマは明朝のフライトに間に合うか気になっている。ホテルのマネージャーさんをつかまえて、今夜のうちに宿代の勘定を済ませておきたいとお願いした。
「慌てなくても大丈夫。朝食をとって、普通にチェックアウトして出かけても間に合うよ」と宿の人は落ち着き払っている。
それでも不安なファティマを見て、マネージャーさんはこう続けた「もし万が一、君たちがお金を払わずに行ってしまっても、それが世界の終わりってわけじゃないから。お金は必要だけれど、一番大切なものじゃないからね」どこかで聞いたようなセリフだ。
「そんなことより、モロッコの旅は楽しかったかい?よかったら、また遊びにおいでよ」
旅のおわりに
アフリカのことわざに「人は砂漠に行って帰ってくると別人になっている」というものがある。新しい価値観を獲得して帰ってくるからだ。
旅行して自分が何も知らないことに愕然とすることもあったが、違いを体感することで、その国や文化、人々の心に触れることができたのは幸いだった。発見は数限りなく、こうして長々と書いても、まだ書き尽くせない。
結局、星の王子さまが言っていた、目には見えないけれど、大切なものは何だったのか?これという答えも手がかりもなく飛行機に乗ってヨーロッパに戻ると、また灰色の空と、これまでと変わらぬ日常が待っていた。
たぶん、本当に大切なものを見つけるのは不可能なんだ。遊牧民の長老が言う通り、自分の目で見て、心に記憶して、いつも本当に大切なものは何か考え続けなきゃいけない。今も。この先も。
もし読者の皆様がモロッコに旅行する機会があれば、ぜひ足を伸ばして南の砂漠へ。
詩人の才能豊かなモロッコ人に出会い、静かな砂丘で自分自身と対話することで、新しい人生が切り開けるかもしれないから。
(モロッコ紀行・了)
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