アウシュヴィッツ収容体験

2005年6月6日、平和学習でブラッセル日本人学校に来校し、自らのアウシュヴィッツ収容所体験を語ったマダム・ゴルドシュテインの聞き書きです。彼女は学校等を訪れ、若い世代に収容所で起きた事実・体験を伝え平和の尊さを教えています。その努力に対しボードワン国王は彼女に爵位を授けられました。(文:中山博幸)

 「アウシュビッツの証言」

一九四〇年五月ベルギーはナチスドイツに占領された。

十九歳の私はレジスタント組織に加わり地下新聞の発行と配布に関わっていた。

二年半ほど後、私はナチス協力者に密告されゲシュタボに逮捕された。五ヶ月半の間刑務所に勾留され、私は拷問・自白を避けるためユダヤ人であると表明したところブリュッセルからマリンへ移されそこに五ヶ月半収容された。マリンにはベルギー全国のユダヤ人が集められ一九四二年八月から二年間に二万五二五七人がアウシュヴィッツへ移送されたが、一万六千人が到着するやガス室で殺され、生き延びたのは一二〇七人であった。

私は千人のユダヤ人と共に三昼夜行き先も分からぬまま貨車に乗せられた。貨車の中はすし詰めで皆床板に座り、毛布も食物・飲物も与えられず、赤子・病人・老人が含まれていたので、異常な事が起きていることが察せられた。夜中に貨車が停まった。そこがアウシュヴィッツだった。

扉が開き、強烈な照明に照らされ、「急げ、急げ」というドイツ兵の罵声と吠える軍用犬に追われ、荷物は全て貨車に置いたまま男女に分けられた。最初の選別で私はバラックへ入れられ、裸にされ頭を刈られ腕に番号を刺青された。以後私は名前を失い番号で識別されることになる。到着してすぐにガス室で殺された者、それを免れても病気、栄養失調で次のガス室行きが待っていた。

収容所の一日は朝四時の整列点呼、八時から十八時まで強制労働、雨の日も雪の日も、常に立ちっ放しである。収容者は昼夜なく弾薬製造等の軍需工場で働かされたり、穴を掘らせて土を運ばせまたそれを埋め戻させるとというような無意味な作業をさせられた。与えられた食事は薄いスープ、一切れの黒パン。水は汚れていて、いつも飢えと渇きに苦しめられた。タオルも石鹸もなく虱がわく不潔な環境では発疹チフスが蔓延した。私が入れられたバラックからはガス室が見え死体が焼却される臭いがした。

収容所で一番恐れられたのはメンゲレ医師であった。彼がガス室行きを決定していたからである。ある日、私はガス室行きの列に並ばされた。隙を見て私は仲間が開けてくれた扉から外にとび出し、仲間の中に紛れ込んで逃れることができた。

 

一九四五年一月一八日、ソ連軍の到着を予期したナチスは、六万人の収容者を別の収容所へ移送し、ガス室と焼却炉を破壊した。雪の降る寒い日、私たちは三日間立ち止まることなく「死の行進」をさせられ、無蓋車に三日間乗せられベルゲン・ベルゼン収容所に送られた。イギリス兵によって解放されたのは四月一五日だった。

二〇〇五年一月二七日、欧州各国の元首が集まりアウシュヴィッツ解放六〇周年記念追悼式が行われ、アルベール二世ベルギー国王が参列した。

当日、テレビ画面に映る収容所跡には雪が降り積もっていた。

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