ミチルのひとりごと キュウリを切れない日本人と、ヒジャブを被らないクルド人

家庭科の時間が、昔から大の苦手だった。

私の子供の頃は、女の子は家庭科で、男の子は図画工作と決まっており、男女で学校で習う内容に違いがある時代だった。

不器用だった私は、家庭科の時間が苦痛で仕方がなかった。男子が楽しそうにノコギリを使って椅子とか作っているときに、どうして女子は料理や裁縫を習わなければいけないのか。なぜ自分の興味のある科目を選択できないのだろう。

家庭科では、1分以内にキュウリを30枚以上切るという試験があった。しかも、1枚を2ミリ以下にしなければならない。今考えると、そんなことをして一体何になるのだと言いたくなる。

不幸中の幸いで、友達に恵まれていた私は、30枚以上を余裕で切ることのできる彼女たちに、余った薄切りをこっそり渡してもらい、それらをかき集めてテストに合格することができた。

1本のキュウリからのはずなのに、大きさの異なるスライスが並んでいたのだが、先生は何も言わずに見逃してくれた。

「料理ができないなんて、君は一生結婚できないよ」なんて、古い考えの男友達に挑発されても、私は「そう? だったら結婚なんてしないだけ!」と言い返したものだ。

 

ベルギーに来て、既婚女性の同僚たちと料理の話になった。

「私は料理は苦手なの。でも、夫のアランが料理上手だから、全然問題ないわ」と、アイルランド人の女性ディレクター。

「うちもそう。お料理なんて、男の仕事よね。力も強いし、包丁持たせたら男のほうが似合ってる。フレンチのシェフなんて、男がほとんど」とは、ドイツ人の夫をもつフランス人の言。

日本では男友達の発言にムキになって怒っていたのに、ヨーロッパでは、それが滑稽にすら思えてくるから不思議だ。

 

最近、イランで若い女性が警察に殺され、これに対する大規模なデモが行われている。そもそも逮捕されたのは、ヒジャブをきちんと被っていなかったというのが理由と言われている。

イランは中東のなかでも比較的、女性が解放されているイメージがあった。女性が濃い化粧をし、ジーンズをはき、体を特に隠さずにいる姿をテレビで見たことがある。ヒジャブはふわりと頭にのせているだけ。何かの拍子に肩に落ちたりもするだろう。

 

そんな世界情勢の中、私はブリュッセル中心街で上映されていた『The Other Side of the River』というドキュメンタリー映画を観た。主人公はシリア国内に住む若いクルド人女性である。

ハラという20歳の彼女は、父親が勝手に決めた男と無理矢理結婚させられそうになったため、16歳の妹と一緒に家出して、クルド人の組織する警察に入隊する。

若い女の子たちが、迷彩柄の軍服を身にまとい、銃を手にして訓練している場面から映画は始まる。自国を持たないクルド人たちの軍隊や警察では、女性が男性と同等に扱われ、任務中の警察官はヒジャブを着用しなくても問題がないようだ。

物語の途中で、妹は実家に帰り、結婚することを決めるのだが、それにハラは大激怒。カラシニコフ銃をもって父親に激しく抗議する。しかし、ここで私は彼女に対して違和感を持った。

「女性は絶対に結婚すべき」という価値観を押しつける父親と、「結婚は女性を窒息させるだけ」と主張して譲らないハラ。二人とも実は、同じ間違いをおかしているのではないか。

 

自分の価値観を大切にするのはよい。しかし、あたかもそれだけが正しいかのように、他人にまで押し付けることに私は怒りを覚える。日本でも夫婦別姓や、同性婚なども、そんな人々が反対して、議論が前に進まない。なぜ選択肢を広げることを妨げるのか。

異なる価値観や多様性を受け入れる社会は強くて魅力的だ。何が自分にとって正しいのか、それは各々個人が決めればいい。他人が決めることじゃない、そう強く思うのだ。

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